復元屋の想い
歴史的建造物を現代に蘇らせる
復元タイルのスペシャリスト
interviewer 株式会社DDR代表取締役/安藤竜二
東京駅の丸の内駅舎を創建当時の姿に保存・復元するプロジェクトで、駅舎の象徴とも言える「赤レンガ」の復元を一手に任せられた会社がある。焼き物の街、愛知県常滑市で大正14年からタイル製造を行う株式会社アカイタイル。老朽化した建物のタイルを元の質感・風合いに再現する、高い技術力が自慢のタイルメーカーだ。次代に生き残るメーカーであるために日々奮闘する、三代目社長の赤井祐仁に、株式会社DDRの安藤竜二が迫った。
焼き物の街で八十余年へ
安藤竜二(以下安藤) アカイタイルさんのある愛知県常滑市は「焼き物の街」として有名ですよね。
赤井祐仁(以下赤井) 常滑の焼き物の歴史は平安時代の末期から始まったとされ、900年以上の歴史があり、日本最古とも言われています。常滑は、瀬戸や信楽と並んで日本六古窯の一つで、市内には数千基の古窯跡があるとされ、日本最古かつ最大の規模を有していたことで有名です。現在でも多くの観光客が訪れており、高品質な製品を生み出す日本有数の窯場として、世界的にも認められています。
安藤 アカイタイルさんの歴史を教えてください。
赤井 私の祖父が1925年(大正14年)、常滑市内に創業しました。同じ知多半島の武豊町の富貴から焼き物に適した良質な赤土が採れたことで、それを使ってモザイクタイルと言われる、小さなタイルを作っていました。地元・知多の原料でモザイクタイルを作った最古参の会社なんですよ。1954年に北米へモザイクタイルの輸出を開始。モザイクタイルや外装タイルの製造を行い、1975年に大手タイルメーカーと取引を始め、主に床タイルの製造を行うようになりました。現在までに4回の工場移転を経る中で、最初は200坪だった工場が、移転とともに規模を拡大し、現在では約2800坪の工場となっています。
安藤 赤井社長は三代目ということですが、跡を継ごうと思ったきっかけは。
赤井 社会人になるまで跡を継ぐつもりはなかったんです。実は中学生の頃、鈴鹿サーキットでF1レースが始まったのを機に、レースにハマってしまい、高校卒業後はプロのレーサーを目指して、東京の専門学校に通いました。卒業後はバイトをしながら東京に残り、ラリーチームに入って、ラリーなどレースに参加する日々を2年ほど続けました。しかし、プロのレーサーになれるのは氷山の一角。ある日、天才と呼ばれるレーサーの助手席に乗せていただいたことで、格の違いを思い知らされ、プロのレーサーの道を諦めました。
常滑に帰り、父の勧めにより青年会議所の研修会(青年の船)に参加したことで、祖父や父が築き上げてきた会社を引き継ぎ、人と関わって仕事をしていくのもいいなと思いました。「やるなら一番になりたい」と思っていた私は、この道で一番を目指そうと決意しました。
安藤 まずはどんなお仕事をされたのですか。
赤井 アカイタイルと取引のあった大手タイルメーカーに入社し、工場で1年半、営業マンとして東京で2年ほど勤めました。営業では著名物件や大型物件の外壁のタイルなど、特注品の仕事が多く、業界では「特注品は技術の優れた工場へ」「床タイル工場に壁タイルは任せられない」といった風潮がありました。当時、アカイは床タイル製造に特化していたのですが、私は「アカイの技術力なら外壁タイルもきっとできるはずだ」と思い、発注先を探していた先輩に頼み、アカイに外壁タイルへの挑戦をさせたのです。それが採用され、マンションの外壁にアカイのタイルが使われることになり、その後も外壁タイルの分野に踏み込んでいくことができました。何年にも渡ってその物件の外壁が残り、人の目に触れることを考えると、とてもやりがいのある仕事だと感じましたね。
デザインに関しては、当初は設計屋から提案されたものに応えるという形でしたが、徐々に自分から提案させていただくようになりました。海外の展示会にも視察に行き、デザイン的も技術的にもレベルの高いタイルに触れ、そこからいいものを取り入れてやろうと、自らデザイン・開発も行いました。
そして26歳で常滑に戻って、アカイタイルに入社しました。
歴史を次代に残すための「復元」
安藤 入社してからはどんなお仕事をされましたか。
赤井 営業・開発の仕事に携わり、磨きや釉薬(ゆうやく)を駆使して、新しい商品の開発に尽力しました。こだわった商品は手間やコストがかかりますが、有名デザイナーのマンションの外壁に使っていただいたこともありました。そうやって自社開発した商品は、本社の一角をショールームにして飾ってあるんですよ。
2000年以降、歴史的な建造物の修復・復元のお話もいただけるようになり、最初にきたのは、東京の日本工業倶楽部会館が建替えを行うということで、その外壁タイルの復元の依頼でした。横河民輔氏が設計し、1920年(大正9年)に創建された歴史ある建造物です。そこで実際に使われていたタイルが弊社に送られてきて、それと同じ色・質感を、汚れも含めて再現してほしい、というのです。クライアントは全国のタイルメーカーと競合させて、一番良いものを選びますから、一筋縄ではいきません。歴史的な建造物の復元という、弊社になかった新しい道を切り拓きたいと社員一丸になって、原料と顔料の調合具合、窯の温度調節、当時の製法の再現……日々、試行錯誤の繰り返し。結果、並み居る競合を抑えて、弊社のタイルが採用されました。見る目が厳しいことで有名なクライアントでしたが、いいものができたと喜んでもらえたんですよ。タイル屋冥利に尽きる仕事でしたね。
安藤 他にはどんな物件を手がけられましたか。
赤井 江田島旧海軍兵学校、成蹊大学本館、両国国技館、東京中央郵便局など国内の歴史的な建造物の外壁の復元も、弊社の再現性の高さが認められ、任せていただくことになりました。海外ではジオ・ポンティが設計したイタリア・ミラノのサンフランチェスコ教会の外壁の復元もやらせていただいたんですよ。
その中でも特に思い入れが強いのは東京駅の丸の内駅舎の外壁タイルを作らせていただいたこと。一度は弊社がお世話になっている大手タイルメーカーさんが自社で作ると話が決まったのですが、提出したサンプルと工場で生産したものが、微妙に風合いが違ったことで話が流れてしまったんです。しかし、この仕事は何としても取りたい! ということで弊社にお話をいただき、大手さんとタッグを組んで再挑戦。最終的には2社での争いとなった末に、勝ち取ることができました。
安藤 東京の入り口である、東京駅のあの「赤レンガ」を手がけられているなんて、素晴らしいですね!
赤井 東京駅の場合、実際にお話をいただいたのは施工の10年以上も前になるのですが、長い時間をかけ、ようやく施工されるのを見るのは感動的なものですね。古いタイルの復元では、実物が作られた当時の色を再現するのは容易なことではありません。素材の量や質、窯の温度など今までに蓄積されてきた技術を元に、こういう色になるだろうと予測する職人技の世界。昔は窯や焼成技術も発達していませんでしたので、同じ窯でも上と下の温度差によって色ムラが出ていたのですが、現代の窯ではほとんど色ムラが出ず、均一な色が出てしまいます。それを顔料で調整し、3度色を変えて焼くことで、昔の色ムラを表現しているんですよ。
現状、床タイルなどは中国の輸入品が多く、大量生産では日本産のものはどうしても割高になってしまうので、いかに特注品の要望に応えられるかが課題です。弊社なら立体的なものなど形状の難しいものや手加工が必要なもの、そして小ロットでの生産も、ご要望に応じて対応することができます。
安藤 高い技術力があり小回りがきくこと、そして数々の歴史的建造物を手がけた実績と再現力の高さがアカイタイルさんの強みですね! 最後に今後の夢をお聞かせください。
赤井 ピーク時には常滑市内に20社近くあったタイルメーカーも現在では5社となってしまいました。私たちは常に新しいことにチャレンジすることを心掛けてきました。これが床タイルだけの製造を続けていたら今はなかったと思います。今後のチャレンジとしては復元、補修の仕事を増やしていきたいです。歴史的な建造物などを復元し、未来へと残していきたいですね。中国が真似できない、弊社にしかできない技術で、逆に中国の富裕層をターゲットにするというのも面白いと思います。「ここまではできないだろう」という、お客様の期待を一歩超えるものを目指していきたいですね。
赤井祐仁
株式会社復元屋/株式会社アカイタイル 取締役社長
高校卒業後はレーサーを目指して上京するが、プロの壁を目の当たりにし、帰省。「やるからには1番を」という精神で、父の後継者になることを決意し、タイル業界に入る。大手での修行を経て、株式会社アカイタイルに入社。2006年に取締役社長に就任。新しいタイルの開発や、歴史的建造物の復元、小ロット多品種の対応など、常に新しいことに挑戦し続け、次代を生き抜くタイルメーカーとしてその可能性を広げている。